【考察】キングダム 戦国時代の歴史背景 ◯◯君ってなに?戦国四君?
キングダム本編にはなかなか触れず、春秋戦国時代関係の話ばかりしているような気がします。
キングダムには春申君、昌平君、昌文君などなど、◯◯君と呼ばれる人たちがよく出てきます。
歴史上有名な「君」といえば、戦国四君。
- 孟嘗君・・・斉。本名「田文」。斉の宰相 田嬰の子。没年BC279
- 信陵君・・・魏。本名「魏無忌」。安釐王(あんきおう)の弟。没年BC244
- 春申君・・・楚。本名「黄歇(こうあつ)」。楚の令尹(宰相)だが親はよくわからない。没年BC238
- 平原君・・・趙。本名「趙勝」。武霊王の子、恵文王の弟。没年BC251
共通点としては、秦に対抗する国の王の親類(春申君除く)で、昭襄王~秦王政の時代の人ということです。
またコレ以外の共通点として、食客と呼ばれるなんらかの才能を持つ(と自称する)人を数千人も養っていたことが挙げられます。この人達は他国に使いして説得したり、同盟を締結させたり、鶏の鳴きマネで主君を逃したりなどなど。
多ければ多いほど、なんらかの役には立つのでしょうが、それを養えるだけの財力が必要です。飲食から住居まで面倒を見ていたようです。
さて、ではどうやったら「◯◯君」と呼んでもらえるのでしょう。
先日も紹介した宮城谷昌光の「戦国名臣列伝」にありましたので長いですが引用したいと思います。
「君」
とよばれるのは、侯国の主だけであった。しかしながら戦国時代になって、周と楚のほかに韓、魏、趙、秦、斉、燕、宋、中山と言う国の主が王を称えたため、それらの王によって封建された者はことごとく君とよばれるようになった。各国に多くの君が立ったのである。宮城谷昌光著「戦国名臣列伝」P251-252
春秋時代まで、王と言えば周の主であり、中華の国々は候でした。楚だけは南方に興った中華とは別の文明であったのか、BC704から「王」を名乗っていました。
「封建された」とはどこそこの地域を領地としてもらったと考えていいと思います。昭襄王の宰相であった魏冄は穣に封じられたため穣候と呼ばれました。
ちなみに、「公」は「貴族」くらいなのかな。一般庶民ではなくある程度の地位があれば「◯◯公」とよばれたり、主の息子を「公子」と言ったり。
候と君の違いについてははっきりしたものを見つけられなかったのですが、おそらくは領地が大きいもの、例えば複数の街が含まれる地域を所有する人が「候」、小さいもの、例えば街ひとつを所有する人が「君」じゃないかなー、たぶん。
「◯◯君」の◯◯についても、候とちがって地域名ではなくて、耳障りの良い意味の良い言葉のような気がします。
いろいろググったりしたところ、この方の説明が一番分かりやすかった。
孟嘗君という呼び名
7 最後に
以上、孟嘗君を中心として戦国の君号が名目上の領地を冠して称されたこと、多くの場合にその地は何らかの理由で選定されるものであるようだが事情が判然としないこと、その地の所在は不明のものが多いことを見た。まとめると次のようになる。
- 公子が名目上の土地を冠して与えられる美号である。
- 勲功ある家臣がある種の爵位として、名目的な領地により与えられる。
- 功臣が実際の封邑により与えられる。
なるほどー