kohidekazu's blog 買ってみた。使ってみた。読んでみた。

自分が40代になったことが信じられない40代のために!

【書評】うちの師匠はしっぽがない ★★☆☆☆ 落語の魅力は伝わってこないな

 

 

 

キャラクタはとてもいいと思います。
絵柄もかわいいし、大正期の大阪の雰囲気も出ているような気がします。

でも落語については、皆さんがおっしゃるほどとは思えなかった。
噺のとっかかりと雰囲気は出ているのかもしれないが、肝心の落語の楽しさがマンガでは表現されていないと感じた。楽しげな雰囲気の絵はある。でも何が楽しいのかはわからない。

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単行本では噺の解説ページがあったりして、そこで「ああ、そういう話だったのね」と分かるが、それでいいの?とも思う。

もう少し噺を中心に据えた方がいいなじゃなかろうか。

一つの噺で今の倍くらい使って、古典落語と落語外の登場人物がうまく絡めばもっと落語の楽しさを伝えられると思う。今は噺2割、落語外人物8割くらいに思うので5:5くらいまで引き上げて欲しい。

個人的にはキャラクタに頼りすぎている感じがして、今一つだった。

【書評】狐憑 中島敦 ★★★★★ 文字という魔法

 

 

 

まだ文字というものができる前のスキュティア人(スキタイ)の話。
本当に短い数ページの作品なのだけど、創作と言うものが人間の本能に基づいたものであって、当然のことながら文字ができる前より早くに始まり、しかし記録にも残らず忘れ去られた詩人が大勢いたであろう事実に自分の足元がなくなってしまったような感覚を覚える。

自分が思うこの本の主題は二つ。
一つは「狐憑」。見たことのないものについて語るその姿は古代の人達にとって何かが憑いたとしか思えなかったかもしれない。しかしそのうちのいくつかは人間の想像力が作ったものであり、創作は人間の本能のひとつであって、きっと中島敦本人もこのシャクと同じような人間であること。
もう一つは、その想像力をもって語ったことも、また語ったその人も「文字」と言う魔法がなければ存在しないのと同じであるということ。

この話自体は全くの創作なのだろうが、シャクのような人物は実際にいたのだろう。しかし文字ができるよりもっと昔の人物のほとんど忘れ去られている。いや、忘れ去られているというよりも「存在しない」と言う方が正しいのかもしれない。中島敦の代表作の一つである「文字禍」ではやはり文字に記録されていないことは存在していないということではないかと悩む老博士の苦悩が書かれている。

 

 


では文字、すなわち「記録」がないものは存在しなかったのだろうか。
全ての人は生きている間だけ存在していて、自分が死に、自分のことを知っている人がすべて死んでしまった後はもう存在しないのだろうか。
自分と言う存在が「文字」と言う魔法のようなものによってのみ存在していることに気づいた瞬間に何とも言えない不安感を覚える。

旧仮名遣いで読みにくいのは事実だが、若い人にぜひ読んで欲しい。

 

 

 

 

 

【家電】★★★★★ バッファロー 外付けハードディスク 4TB テレビ録画/PC/PS4/4K対応 バッファロー製nasne™対応 静音&コンパクト 日本製 故障予測 みまもり合図 HD-AD4U3

nasneの説明を見ていると2TBまでしか認識できないとなっているようだけど、4TBも全容量認識できてますね。

 

 

nasne Version2.60
1TB版のSONY謹製nasneです。FAT32でフォーマット後の実容量は3.63TB(3,999,809,994,752バイト)

 

 

出荷時はNTFSでフォーマットされていますので、PCでFAT32でフォーマットする必要があります。Win10,11ではNTFSまたはexFATでしかフォーマットできないので、BuffaloのHPからフォーマッターをダウンロードする必要あり。フォーマッターはWindows用、Mac用ありましたがWindows用しか試していません。フォーマット時間は数分。数時間かかるかと心配したのですが杞憂に終わる。

www.buffalo.jp

やはりnasneは使いやすい。PS5ではリアルタイム視聴のために500円必要。PCからの視聴用には3300円のPC TV PLUS購入の必要あり。

www.sony.jp

 

 

まだ購入後1ヶ月経っていませんので信頼性については多少不安ですが、今の所かなり静か(といってもnasneと一緒に別部屋においてあるので関係ないが)。

【書評】QED 伊勢の曙光 ★★★☆☆

 

 

このシリーズ、すべては読んではいないがようやく気付いたことがある。

作者自身が自分の説を信じていないんじゃないだろうか。

例えばSF作家が「重力波と光子をこの機械でうんたらかんたらしたらタイムトラベルが可能になる」という説を自作で書いていたとする。でもだからと言って作者がその説を信じているわけではない。あくまで読者に楽しく読んでもらうための設定である。

このQEDシリーズも、作者が創造したあくまで読者に楽しんでもらうための設定なのだと最近思うようになった。

ただSF小説と違って、「この解釈の方が正しい」と思い込む読者がいるのがあまりよろしくないとも思っている。私は歴史研究者ではないが、歴史の研究とは古文書を発見し、文献を紐解き、遺跡を発掘しては茶碗片を組み立てるような地道な作業の積み重ねであると思っている。それをさらに多くの研究者が検討する。歴史の教科書に載っているのはそんな地道な研究結果の最大公約数であって、将来的に訂正されることはあるだろうが現時点での研究の成果である。

1冊、小説を読んだだけで「目からうろこ」だの「これが真実」だのと思うのは、歴史の研究をしている大勢の歴史学者にとって失礼だろう。
QEDシリーズはあくまでエンターテインメントであって、歴史の真実ではないとわかったうえで楽しむのが基本だと思う。

じゃあどの辺が作者の創造なのかと言えば、今作でいえば「さみだれ」に関するあたりだろうか。文中では「サ」は「恐ろしい神様」と言っているが、少なくとも自分は聞いたことがない。早川孝太郎が「サ神」という言葉を提唱したが、これとて「田・田植え・稲」の神様であって、恐ろしい神様ではない。「サ」は小さい・細かいとか裂けるとかの接頭語という解釈が一般的である。

「サ・苗」や「サ・乙女」、どちらも「田・田植え神」ととらえることも「早い・細かい」ととらえてもおかしくない。また「皐月」は新暦では5月を指すが、旧暦では6/21(またはその前後)の夏至を含む月であるので、まさに「サ(田・田植え)・月」である。「さみだれ」は「サ・み(水)・たれ(垂れ)」であって、「田植えの時期に降る水(雨)」だろう。「淫雨」についても「淫」の本来の意味は「害をなすほど度を越して続く」という意味で、「女性を求めて妄執にかられるという意味」など聞いたこともない。現代の語意から作者が作った意味だと思う。

このように、小説をエンターテインメントに仕上げるため、作者の「創作」が入っている。それはそれで悪いことではない。小説なんだから面白ければいいのだ。
よろしくないのは、「これが真実」と思ってしまうことだろう。